ミュージカルの題名になっている「イーハトーボ」
これは宮沢賢治が作った言葉です。
いったいどんな人だったのか・・・?
子どもの頃の賢治を探してみましょう。
●明治29年8月27日、岩手県の花巻市(昔は岩手県稗貫郡花巻町)で、質や古着商を営んでいる家の長男として生まれました。この年の6月、明治地震津波発生、2万2千人の方が亡くなられました。
●賢治が2歳の時、妹のトシが生まれ、5歳の時、妹シゲが生まれました。
この頃は赤痢や腸チフスが流行していてたくさんの子どもや大人まで感染し、多くの方が亡くなっています。
●子守唄のように聞かせられていたので、賢治は三歳の時に、1行7文字、120行からなる『正信偈』(しょうしんげ)という教えの言葉を暗誦していたようです。全部読むと15分くらいかかるようです。
●明治35年6歳、賢治は赤痢にかかり入院します。この年は、東北地方が大暴風雨のため凶作となり翌年東北の人々は飢えに苦しみます。
●7歳になると「花巻川口尋常高等小学校」に入学します。小学校6年間の成績はすべて「甲」。
成績優秀でした。
●翌年に弟の清六が生まれます。賢治8歳の夏、近くの川で二人の子どもが渦に巻き込まれ、一人は助かったのですがもう一人は行方不明になってしまいました。
この時の記憶が「銀河鉄道の夜」につながったのでしょうか?
「銀河鉄道の夜」:ジョバンニはなぜかさあっと胸が冷たくなったように思いました。そしていきなり近くの人たちへ「何かあったんですか。」と叫ぶようにききました。「こどもが水へ落ちたんですよ。」
(中略)
「ジョバンニ、カムパネルラが川へはいったよ。」
「どうして、いつ。」
(中略)
みんなもじっと河を見ていました。誰も一言も物を云う人もありませんでした。ジョバンニはわくわくわくわく足がふるえました。魚をとるときのアセチレンランプがたくさんせわしく行ったり来たりして黒い川の水はちらちら小さな波をたてて流れているのが見えるのでした。
下流の方は川はば一ぱい銀河が巨きく写ってまるで水のないそのままのそらのように見えました。
ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはずれにしかいないというような気がしてしかたなかったのです。
●10歳の頃からは、暗い森を抜け、川を渡り、崖をよじ登り、岩や石を削り取ってルーペで観察し始めます。学校の図書館では鉱物、地質、植物関係の本、海外の文学を読みあさります。哲学書もよく読んでいたようです。
子どもの頃の宮沢賢治。どうですか?身近に感じられましたか?それとも・・・。
次回は、井上ひさしの子どもの頃を探ってみましょう。