前回は中山競馬場内になる馬頭観音を紹介しましたが、今回はもうひとつの馬頭観音と中山競馬場周辺には戦争時代の遺跡があるのでそれを紹介します
まずは馬頭観音から
場所は第3コーナー裏手
ここにたどり着くには一度競馬場から外に出る必要があります
出口は南門です
そこから競馬場を左手に見て道なりに歩くと第3コーナー裏手に迷わずたどり着きます
以下の写真は第3コーナー裏手の鉄塔
その裏手に今回紹介する馬頭観音はあります
これがその馬頭観音
この場所を衛星写真で見てみましょう
こんな感じで中山競馬場の敷地をえぐるように馬頭観音があります
中山競馬場の所有地ではないように感じられます
Google Mapが表示されない方のために、画像を貼っておきます
全部で19もの馬頭観音がここにはありました
以下の写真はこの19基のなかでももっとも新しい馬頭観音
もっとも新しい馬頭観音は昭和49年のもの
中山競馬場内にあるものよりの新しい馬頭観音です
「野平省三家内一同建之」と彫られており、この野平省三さんとは戦前は騎手として、戦後は調教師として活躍された方だそうです
以下はその他の馬頭観音
すっかりと読むことができないものもありますが、慶應といった年号などがうっすらと読み取ることができます
なぜこの場所にこれだけたくさんの馬頭観音があるかについて調べたのですが、はっきりしたことはわかりませんでした
この周辺地域の馬頭観音がここに集められたのでしょうか
続いて、このそばにある戦争遺跡を紹介します
この馬頭観音のそばには古作熊野神社があり、その入り口には「一億一心」と刻まれた国旗掲揚台が残っています
国旗掲揚台とは、国旗掲揚するためのポールの土台です
この一億一心とは、日中戦争を機に軍事色が濃くなった当時の国策にそったスローガンや標語のひとつで、国民が心を一つにして、といった意味のようです
「一億総活躍」なんて最近言われていますが、なんとなく語呂が似ていますね
当時のこうしたスローガンや標語には「一億一心」の他にも、「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」「石油(ガソリン)の一滴、血の一滴」などといった言葉がありました
この国旗掲揚台を横からみると、以下の写真のようになっています
真ん中にある木片が国旗掲揚のポールです
ここには見慣れない「紀元2600年」の文字が彫られていますね
wikipediaから抜粋すると、
西暦1940年(昭和15年)が神武天皇の即位から2600年目に当たるとされたことから、日本政府は1935年(昭和10年)に「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、橿原神宮や陵墓の整備などの記念行事を計画・推進した。
日本政府は、日本が長い歴史を持つ偉大な国であることを内外に示し、また日中戦争(支那事変)の長期化とそれに伴う物資統制による銃後の国民生活の窮乏や疲弊感を、様々な祭りや行事への参加で晴らそうとしたこともあり、1940年(昭和15年)には、年初の橿原神宮の初詣ラジオ中継に始まり、紀元節には全国11万もの神社において大祭が行われ、展覧会、体育大会など様々な記念行事が外地を含む全国各地で催された。
とのこと
この熊野神社以外にも中山競馬場から徒歩圏内には有名な軍事施設跡があります
衛星写真や地図でみると、道が円を描くように丸くなっている行田公園です
この行田公園、戦時中は旧日本海軍の無線基地があった跡地で、太平洋戦争開戦の真珠湾攻撃部隊に「ニイタカヤマノボレ1208」の電文を送信した事で一般に広く知られていますこの行田公園周辺には、戦時中の遺跡が数多く残されています
「海軍」と彫られているのが読み取れますか?
こうした遺跡が周辺を散策すると数多く見つけることができます
この他にも軍事施設は徒歩圏内にありますが、また機会があれば紹介したいと思います